好奇心をそそられて八代も足を向けると、スピーカーから天照一の人気を誇るキャスターの軽やかな声が臨時ニュースを読み上げているのが聞こえた。人々の頭越しに見える画面には、地下鉄事故のテロップが流れている。
前に立つ、スーツ姿の男が隣の女に向かって言った。
「大手町で列車が脱線だと」
「え〜大丈夫なの?」
「どうだかな。特高が総出で救出作業中だが、瓦礫で埋まってて上手くいっていないらしい」
「地下鉄乗ってなくってよかったねー」
目の前で繰り広げられる会話をそれとなく聞きながら、八代は遠くから迫るサイレンの音に道路を振り返る。やがて赤い回転灯を光らせて現れた数台のパトカーが猛スピードで通り過ぎていくのを見送った彼は、思い出したように歩き出した。メトロが脱線事故となった今、大手町周辺の各線は使えなくなっているだろう。恐らく代用としての鉄道やバスなども、とんでもなく混みあっているに違いない。
赤羽の実家までの経路を考えつつ、頭の中では赤い光の残滓に被さって、親類の顔が浮かんでいた。特高警察機動捜査隊に所属する、彼の叔母にあたる勇ましい女性だ。きっと彼女もまた、危険な事故現場で救出作業に加わっているに違いない。
「円華さん、大丈夫かな……?」
ポツリと呟いた視線の先で、警察車両がまた一台、通り過ぎていった。

掬川円華はその日、非番だった。暇つぶしに愛用のバイクで国道をツーリング中だった彼女は、越権行為でこっそり愛車に取り付けた警察無線から、緊急連絡を傍受したのだった。
≪パトロール中の全車両に通達。西京メトロにて列車の脱線事故発生。現場は大手町〜西京区間。繰り返す、西京メトロにて脱線事故発生。直ちに現場へ急行し救出作業に……≫
その音声が終わらない内に、彼女は素早く後方の安全確認をするや否や身体を一気に右に傾けた。はずみで車体が急カーブし、反対車線へ強引に割り込む。
口にくわえた煙草の煙がUターンの残滓を描き、直ぐに消えていった。
辺りにはアスファルトとタイヤのゴムの擦れる悲鳴が撒き散らされ、クラクションの嵐が起こる。
それらを無視してスロットルを解放、一気に加速した。
視界の端で、女学生が金色の髪を揺らして呆然とこちらを見ている。
心の中で、よい子は真似しちゃだめだぞと呟いて、彼女は目的地へひた走った。
通常かかる筈の半分の時間で到着した円華は、愛車を乗り捨てると一目散に黄色いテープへ駆け寄った。
現場の惨状は、地下鉄出入り口から次々と運ばれる怪我人の数を見て想像がついた。
一番手近にいた野次馬整理中の警官に手帳を見せ、仕切りをくぐる。煙草の火を消しながら階段を降りれば、橙色の電球の元、忙しく立ち回る救急隊員や消防員、警察官で溢れていた。
「警部補!」
聞き慣れた声に振り向くと、土埃にまみれた機捜の部下が人ごみをぬってこちらまでやって来るところだった。
「今日は確か、非番では?」
「まァな。けどほっとけねェだろうよ、こんな事故」
答えて円華は腕まくりをしながら、急ぎ足で駅のホームへと向かった。その間に惨状の割に比較的、現場の混乱が少ない事に気づく。
理由は直ぐに思い当たった。
「なァ、ひょっとしてここの指揮って――」
尋ねる途中で、見慣れた異形のテレビ頭が目の前を複数の駅員を連れて横切っていく。
「――鮫島警視長ですね」
「……だな。ったく、あの人も大概、現場好きだよなァ。つーかお偉さんは上で腰据えて現場監督してろっての」
ぼやきつつも笑みを浮かべる円華は、ヒールの高い靴でも軽やかに線路に降り立つと、赤みの強い長髪を結び直しながら、目の前に口を開ける薄暗い穴を見据えて不敵に言い放った。
「さァて、人命救助しますか!」

日月メリーは呆然としていた。先程、渡ろうとしていた交差点でバイクが華麗に反対車線に割り込み、非難のクラクションを浴びながら走り去って行った所を目撃したばかりだ。
その運転手の鮮やかな薔薇色の髪が焼き付いてしまった目を、何度か瞬かせて、我に返った彼女はいつの間にか青に変わっていた信号に慌てて横断歩道を渡り切った。小走りで向かうのはバス停だ。
既に到着していたバスに乗り込むと、車内は時間の割に満員に近い。なんとか吊革につかまった彼女は不安そうに水色の目を左右に走らせた。このバスは、彼女の家に向かう路線ではなかったが、しかしメリーが間違えた訳ではなかった。彼女は今、日課の最中でいつもの通り己の勘に従って行動しているだけだった。ふわふわとした金髪の、異国の人形然とした美少女が、金色のまつ毛を伏せて足元を見つめる様は一幅の絵のようだったが彼女の心中は穏やかでない。
先程から、胸騒ぎがしているのだ。
それは本来ならば、あり得ない話だった。なぜならこの日課は彼女の一日の中で最も楽しい時間なのである。つまり目下、意中の人である丁寺院千経の姿を見ようと彼を探し回っている。好きな人を一目見る為に歩き回る時間ほど楽しい事は無いと、彼女は思っていた。また見つけてから、その横顔を眺める楽しみも格別である。要するに彼女はストーカーなのだった。
彼女の異能は『寝ても覚めても』忘れる事の出来ない人の元へ必ず辿り着ける能力、それが妖怪の血を引くメリーの力だ。だから自身の勘に従えば絶対にあの人の元へ行ける。それは良く分かっているはずなのに。
彼女は重い溜め息を落とした。次の瞬間、指が勝手に停車ボタンを押していた。
顔を上げるとそこは、大手町を少し過ぎた辺りのバス停だった。
再び自分の中の確信に基づいて、彼女は路地を歩き始めた。いつもなら膨らむはずの期待感は胸中のどこを探してもなく、寧ろ喉が塞がれていく様な不安感が増すばかりだ。
足早に路地を抜けるメリーはやがて大通りに出た。
そして、絶句した。
そこにあったのは道路にずらりと横付けされたパトカーと消防車の列、入れ替わり立ち替わり、サイレンを響かせて行く救急車。野次馬たちが殺到する、地下鉄入口だった。
何よりも彼女の足を震わせたのは、彼女の中の確信が、想い人が地下鉄内に居る事を告げていたからだ。上手く働かない頭で暫く立ちすくんでいた彼女は、野次馬の群れに近づこうと恐る恐る足を動かした。
見ている間にも、警官が地下鉄入り口を忙しく行き交い、やがて土と血にまみれた怪我人が一人、運び出されて救急車に乗せられていった。
いよいよ青ざめたメリーは震える手を胸の前で組み、ありったけの勇気を振り絞って比較的話しかけやすそうな年配の女性に声を掛けた。
「あ、あのっ……」
「はい?」
振り向いた女性と目が合って、たちまち彼女の勇気は萎れた。けれど、ここで引き下がる訳にはいかない。極度の人見知りからくる緊張を、丁寺院千経への想いで抑えつけながら彼女は蚊の泣くような声で尋ねていた。
「あの、ここで、あの……な、なにかあったんでしょうか……?」
「あなた知らないの? メトロの脱線事故よ。大手町から西京駅間で列車が脱線して、壁に衝突したんですって」
メリーは目を見開いた。
「そ、それでっ……人が死んだりとかは……?」
「さあ、そこまではまだ……でも、さっきから次々と怪我人が運ばれてくるの。噂では、衝撃で地下鉄内の壁が崩れて、救助が難航しているんですって」
「そんな……」
女性は心配そうな表情でメリーの顔を覗きこんだ。
「大丈夫? あなた顔が真っ青よ。誰か呼んだ方が……」
「いえ、結構です……あの、ありがとうございました」
「ええ……」
辛うじてそれだけを伝えたメリーは、ふらふらと集団から離れた。彼女の勘は、地下鉄の駅へ降りろと告げている。それはつまり、想いを寄せる人物が地下鉄内にいて、しかもまだ列車内に取り残されているという事だ。
さっきの人の話では、死んだ人はいないという。いや、まだ分からないだけ。そう考える彼女の頭の中は、運ばれていった怪我人の姿や道路いっぱいに並ぶ救急車とパトカー、サイレンの赤で埋め尽くされていた。
そして、未だ救助されていない彼。
不意に、目の奥が熱くなった。鼻の奥がツンとする。
訳が分からないまま、彼女は涙を一筋流していた。
慌てて袖で拭うと、唇を引き結ぶ。泣いたってどうしようもないのだ。
彼女には、何一つ出来ないのだ。
メリーは俯きながら、後ろ髪を引かれる思いで家路を辿った。ひたすらに彼の無事と、列車内で救助を待つ大勢の人、そして助かった人たちが誰も死なないように祈りながら。
今、彼女に出来る事はそれだけだった。

「――でさ、結局全員救助するには52時間かかったんだよ」
西京メトロの事故から数日後の夜。
明かりのついた和室に、書き物をする音が響いていた。数学の参考書を開きながらノートにペンを走らせる八代は、誰も居ない空間に向かって小さく話しかける。
「乗客の一人が異能で咄嗟に前の車両を瓦礫から守って、下敷きにならずに済んだらしい。生き埋めにはなったけど」
『ふーん。けど、死者ゼロなんだろ。だったら少しは報われるんじゃねーの』
「まあね」
彼にしか聞こえない声に、八代は笑って答えた。
姿の見えない相手は、この【世界】には居ない片割れの声だ。彼の頭の中に直接響く、東京と言う異世界に住む谷城千種という同い年の青年の声だった。
『もしこっちで列車事故なんて起こったら、何十人と死者が出てる。異能があって良かったな』
「けど毎日のように、異能を使った殺人事件が起こっているよ。能力はあったらあったで大変さ。結局のところ、使う人間の心次第って事でしょ」
『は! そういうお前も言えたもんじゃねーしな』
「失礼だな。僕の力は誰にも迷惑かけてない」
『俺に十分かかってんだよ』
間髪入れず返った不機嫌な声音を涼しい顔で流した八代は、手の中でペンをくるりと回し、それに、と続けた。
「僕らだからこそできる事がある。こんな……力でも」
『……勝手に複数形にするな。ランク外の亜人だかなんだか知らねーけど、そもそも俺には関係ない』
「ははは! 今更そんな事言わないでよ」
今は見えない相手が苦虫を噛み潰したような顔をしている様子を脳裏に思い浮かべ、彼は笑顔で片割れの名を呼ぶ。
「なあ千種。一緒に人助けしようよ」
『……ふざけんな。こっちの意見なんざ、求めてないクセに』
心底覚めきった返事を得ても、八代の笑顔は崩れずに寧ろ当然と言いたげに深められていた。



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